にほんブログ村
私が200万の貯金を手にヨルダンに渡ったのは2008年のこと。半年で帰るかもしれないし、1年で帰るかもしれない…将来のことは全く分からずにとにかく飛び込んだ中東。それが13年目の今も中東にいるわけですから、人生とは不思議なものです。
ヨルダンで最初にした仕事は?
さてヨルダンでは、週1回の日本人補習校での先生という仕事をまず見つけました。これはヨルダンに行ってすぐに始めたこと。先生といってもボランティアに近いし、土曜日だったかに3時間ほどだったので、お給料なんてものでもありません。100JDくらいだったような気が…。よく覚えていませんが、とにかくほとんど足しになるような額ではありませんでした。
本気で仕事探しを始める
というわけで、ヨルダンに住んで半年くらい経った頃でしょうか、本気で仕事を探し始めました。日本との取引がありそうな会社に手あたり次第連絡を取り、とにかく自分を売り込むという、中東でしか通じないような手法での職探し。だって、ヨルダンには日本人を表立って募集しているような現地の会社はありませんから。日本語しか売りがない私には、この方法しかありませんでした。
日本人が欲しそうな会社…ときたら、やっぱり旅行会社でしょう。というわけで、最初に勤務したのは旅行会社。ここでは、お給料の未払いという「中東あるある」の問題が発生し、アラブの友達に助けてもらいました。詳しくはココでも書いています。この旅行会社での勤務期間は3か月。試用期間が終わった後にお給料交渉が決裂し、去ることに。これについてはまた別の記事で詳しく書きたいと思います。
ついに来たか? ジョブ・オファー!
次の勤務先が決まるまでの間にも、中東専門の求人サイトにプロフィールを掲載して、就職活動に励んでいました。そんな私に初のジョブ・オファーが! サウジアラビア人から電話がかかってきて、家庭教師を募集しているので一度会いたい、と。今たまたまアンマンにいるので、時間を取ってもらえないか? ということでした。
ふーむふーむ。何だかよく分からんけど、断る理由もなく、仕事も欲しいし…ということで、指定されたカフェに出かけました。当時の私は、サウジアラビア人と言えばカンドーラに身を包んだでっぷり太った親父を想像していました。この写真はエジプト人ですが、イメージとしては、こんな感じ(でももっと太っている)↓
当時、サウジアラビアに関する知識も何もなかった私は、ヨルダンに避暑に来るサウジアラビア人のイメージがすべてでした。何人かの女性(複数の妻)を引き連れて自信たっぷりに歩く、でっぷり太ったアラブの親父。いやらしい、汚いというイメージが先行する構図です。
ところが、当日そのアンマンのカフェに現れたのは、スーツにぴしりと身を包んだこざっぱりとした細身の初老の紳士。どう見てもアラブにすら見えないその紳士に、「Zakuroさんですか?」と尋ねられ、へ? という間の抜けた返事をした私。まぁホントに私のイメージと全く違ったのです。
提示された条件
このサウジ男性の話を聞きますと、日本に住んでいたことがあり、日本人も日本の文化も本当に大好きだということ。自分は今離婚しているのだが、前妻との間に2人(だったか3人だったか)の娘がおり、日本人の家庭教師を探しているとのこと。日本と全く同じ通りのしつけをしてほしい、日本語で教育してほしいということ。
お給料はあなたが欲しいだけ支払う。でも条件がある。住み込みになってほしい。これだけは譲れない。もちろん、好きなことをしていい。好きな時に出かけたらいいし、好きなものを買って良い。妻ではないけど妻のように大切に扱う。
家にはメイドがいるので、掃除や食事は全てメイドがする。あなたは子供たちを見てくれるだけでいい。ロンドンにも家があるので夏の間はロンドンにも一緒に来てほしい。航空券はもちろん出すし、服でも何でも好きなものを買ってあげる。ヨルダンには冬の間は住むけど、ロンドンとアンマンを行ったり来たりの生活になる。そしてもちろん行きたいときには日本にも一緒に行きましょう、と。
これ、今ならすぐに断りますよ。でも当時の初心(うぶ)な私は、すぐに断れなかったのです。その男性が日本人の家庭教師を探していてなかなか見つけられないこと、子供のためには絶対日本の教育がいいと思っていることなど…ちょっと可哀そうにも思えました。それにでっぷり太ったサウジアラビア人という私のイメージからはかけ離れたこの男性、とても清潔で誠実そうに思えたのです。
人間は自分の好きなように物事を解釈しますので、「好きなことをしてもいい…ということは、住み込みでも、かなりの程度自由が効くということか? 日本にも自由に行き来できる? ええやん?」などと考えました。貯金を使う生活では、次にいつ日本に帰れるかも分かりませんので、日本に好きな時に帰れるというオファーにはかなり心が揺さぶられました。
でもでも…住み込みってのがやっぱりネック。通いなら即オッケーできるけど…。でもこの男性は「住み込み」にどうしてもこだわり…最終的にはお受けしません、と苦渋の決断を下しました。とてもとても悲しそうだったこの男性。心が痛みました。
玉の輿のチャンスだったのか?
後からフランス人の友達には、「あり得ない! 分からんのか? 結局は妻という扱いにされるってことやで。もっと世の中を知れよ~」と嘆かれました。私はその時点でも「フーーン? そうなん? でもあの人すごく悲しそうやったし、心痛むなぁ」という感じでしたが、確かにあり得ませんよね。
というか、この男性としては本当に子どもの教育を考えていたのかもしれませんが、住み込みで家庭教師になるってことがどんなに危険なことか、今ならすぐに分かります。彼らの感覚からしたら普通のオファーだったかもしれませんが、日本人(いや、少なくとも私)には絶対に無理! いったん住み込みなどになれば、あとはもう逃れる術はありません。正式には妻でなくても、妻になってしまうのは目に見えています。
というわけで、ヨルダンで初めて私に舞い込んできたジョブ・オファーはこんな感じでした。玉の輿を狙っている女性がいるとしたら、いい話だったのかもしれません(笑)。
ジョブ・オファーの後の話
さて、私としてはどうしても仕事が必要だったので、その後もいくつかの会社で面接を受けたりしました。ヨルダンではけっこう有名な大手のハムシャリという会社では採用されて、さあ来週から働きましょう、ということになったのですが、それもやはりいろいろ考えて最終的にはお断りするなど、なかなか思ったようには進みませんでした。
2008年当時はリモートワークなんてものがまだまだ一般的ではなかったので、現地で会社に採用されることがどうしても必要だと思い込んでいたのです。でもヨルダンの安月給で会社に束縛されるということがどうしても受け入れられず…。もしあの時に会社で働くようになっていたら、私の人生もきっと今とは全く違っていたと思います。
結局私はフリーランスになる道を選び、それがその後の人生を大きく変えることなりました。でもフリーランスになる前に、最後のあがきで別の旅行会社に3か月だけ就職しました。この旅行会社にまつわる話はこちらで紹介しています。
というわけで、日本とは全然違う中東での就職活動とジョブ・オファー。日本でしか働いたことがなかった私にはいろいろ刺激的でもあり…。でも当時は本当にいろいろ悩みました。若かったなぁ…しみじみ。そして周りにいつも気にかけてくれる友達がいて、色々アドバイスしてくれたことが助けになりました。
海外での生活にいいアドバイザーは欠かせません。そんな友達にまつわる話もいつかできたらと思います。
にほんブログ村